Interview: Hiroshi Kataoka (2017-07-14) by Sega Interactive

From Sega Retro

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Language: Japanese
Original source: 片岡 洋【前編】 株式会社セガ・インタラクティブ[1]


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CREATOR'S INTERVIEW #011

CHAPTER 1

学生時代、将来は"ゲームを作る仕事に就きたい"
と思っていました

―片岡さんの生い立ちについて教えていただけますか?

1967年、神奈川県・横浜市の生まれです。小学校、中学校、高校とずっと横浜で、大学も県内の学校に通っていました。
私が小学生のころは、ちょうど電子工作のおもちゃがブームで、ブロックを並べて電子回路が作れる学研の”電子ブロック”にハマっていました。
初めてテレビゲームに触れたのは、たしか8歳のころ。近所のおもちゃ屋さんに(試遊機として)置いてあった”テレビテニス”(1975年/エポック社)で遊んだのが最初だと思います。そのおもちゃ屋さんにはよく通っていましたね(笑)。
その後、アーケードゲームの『スペースインベーダー』(1978年/タイトー)が登場してからはゲームセンターにも通うようになりました。当時は、”ゲームセンター”ではなく、”インベーダーハウス”と呼ばれていましたが(笑)。

―学生時代はどのような職業に就きたいと思っていましたか?

ゲームが好きだったことともあり、小・中学生のころから、将来は”ゲームを作る仕事に就きたい”と思っていました。
当時、横浜市の綱島にナムコ(現:バンダイナムコエンターテインメント)の工場があったんです。その工場のまえをよくバスに乗って通っていたのですが、子どもながらに「あのなかで『ギャラクシアン』(1979年)が作られているんだな」なんて想像を膨らませていました。本当に、その工場で作られていたかはわかりませんよ。ただ、勝手にそう思いこんでいて、工場のなかへ入りたくて仕方がなかったんですよ(笑)。
また、小学校から高校まで音楽(吹奏楽)をやっていて、ちょうど時代的にもYMO(イエロー・マジック・オーケストラ)に影響を受けた世代ですので、”電子楽器を作る仕事に就きたい”とも思っていました。YMOの細野晴臣さんがプロデュースした、日本初のゲームミュージックアルバム『ビデオ・ゲーム・ミュージック』(1984年)にも、相当影響を受けましたね。
私が学生のころは、ちょうどさまざまな分野にエレクトロニクスが入ってきた時代だと思うんです。それがもう、とにかく楽しいといいますか、とても刺激的だったんです。

―セガに入社を決めた理由は?

就職活動の際は、セガを含むゲームメーカー数社、そのほかに電子楽器メーカーなども受けました。しかし、最終的にセガに入社を決めた一番の理由は、やはりセガのゲームが好き、だったから。
とくに、『スペースハリアー』(1985年)、『アウトラン』(1986年)、『アフターバーナー』(1987年)といった体感ゲームシリーズは、それまでのゲームとは一線を画しており、「こんなすごいゲームを作る会社で仕事ができたら楽しそう」と、思ったのが大きいです。
あと、半分冗談ですが、会社が家から近かったというのもあります(笑)。

―セガ入社当時はどのような業務を担当したのですか?

1991年、プログラマーとして入社しました。すぐに、新人研修の一環でゲームを作ったのですが、それを当時”AM2研”にいた名越(稔洋)さんが評価してくれて、そのままAM2研に配属されたんです。
そして、AM2研に入ったら(鈴木)裕さんに「キミは企画を担当しなさい」と言われたんです。「プログラマーとして配属されたのですが……」と答えると、「キミならできるよ」と(笑)。
「会ったばかりなのに何を言ってるんだろう」と思いましたが(笑)、結局はそのままプランナーになり、『バーチャレーシング』(1992年)などの開発のお手伝いをしつつ、2週間ごとに企画書を1本作成するという業務を行っていました。
プログラマーとして入社したのにプランナーになってしまった、というのは、いま考えるとめちゃくちゃですが(笑)、それでも当時は、どんなカタチであれゲーム開発に携われることが嬉しく、毎日が楽しかったですね。

CHAPTER 2

当時のさまざまな経験が、
現在、非常に役立っています

―片岡さんが入社されたころのAM2研はどのような雰囲気でしたか?

(鈴木)裕さんや名越さんなど、力強いビジョンを持った人が先頭に立ち、そのビジョンを実現するためにチームのメンバーが自発的に動きつつも一丸となってがんばる、といった感じでした。
当時の雰囲気そのままではないですが、現在の第二研究開発本部も、その血を受け継いでいると思います。

―プランナー時代はどのような経験をされましたか?

当時は、いまほど職種の分担が明確ではなく、プランナーと言っても必要に応じてデザインデータを作ったり、プログラマーの手伝いをしたりということもしていました。
さまざまな分野の業務を経験したことは、現在の管理職としての立場で非常に役立っていますね。
プランナーはもちろん、デザイナー、プログラマーなど、各業種のスタッフがどういうことを考えてモノを作っているか、またどんな苦労をしているか、ということがある程度理解できるので。

―当時関わった作品で印象に残っているものは?

初めて自分の企画が製品化された、『それいけ!!ココロジー』(1993年)ですね。心理テストを題材にしたアーケードゲームです。
「新入社員の自分でも市場で勝負ができるゲームジャンルはないだろうか」と、実際のゲームセンターをよく観察すると”占い・心理学”系のゲームはカップルに人気があるのにも関わらず、当時はまだパワーのある作品が少なかったんです。
そこで「このジャンルなら勝てるかもしれない」と思い、はりきって企画書を作りました。その甲斐もあって、製品の評判も非常に良かったです。
反対の意味で印象深かったのは、アメリカの航空機メーカー、マーティン・マリエッタ(現・ロッキード・マーティン)とCG技術の提携をして、戦車のゲームを作ろうとした時の話ですね。
ある日、当時の副社長であった鈴木久司さんに呼ばれまして。「英語は話せる?」と聞かれ、「ほとんど話せません」と答えたんですけど、鈴木さんは「まあ大丈夫だろう」なんて言って……結局、ひとりで3ヵ月ぐらいフロリダに行くことになったんです(笑)。
英語をあまり話せない20代の若造が、軍事産業に就く40歳ぐらいのプログラマーといっしょにゲームを作るという……いま振り返れば、良い経験だったとは思いますけど、当時としてはハード過ぎる3ヵ月でしたね(笑)。
それで完成したのが、『デザートタンク』(1994年)という戦車戦のシューティングゲームです。ゲームデザインからバランス調整まで、企画のすべてを担当しましたので、完成時は非常に感慨深かったです。

―そういったプランナー時代を経て、徐々に管理職へとステップアップされていったわけですが、作品に対する関わりかたはどのように変わっていきましたか?

プランナーと管理職とでは作品への関わりかたがまったく異なります。プランナー時代は、ひとつの作品に対して全身全霊を注いで挑むのですが、管理職になると、そういった全身全霊で挑んでいる作り手をサポートする側に回るんですよね。
ゲームを制作している人は、そのゲームのことをずっと考えているわけですから、「どうやってゲームを良く(面白く)するか」という点では、管理職の人間が勝てるはずがないじゃないですか。
ですから、管理職として「いかに、ゲームを良く(面白く)するか」というよりも、「ゲームを制作している人たちが、いかに成功に近づくか、いかにそれをサポートするか」という関わりかたに変わりました。
以前、SEGA-AM2(現・第二研究開発本部)の社長を任されることになったとき、責務を果たすことができるのか不安に思いつつ、元上司である(鈴木)裕さんにご挨拶に行ったんです。
そのとき、裕さんが黙ってホワイトボードに「立場が人を作る!」って書き始めて。「どういうことですか?」と聞いたら、「結局、やれば何とかなる。そういう立場になれば、できるよ」と激励してくれました。
もちろん大なり小なり仕事をするうえでの苦労はありますが、実際にいまでも「やれば何とかなる」というのはその通りだと思っています。

CHAPTER 3

セガ・インタラクティブの強みは
誰かがチャレンジしようとしたときに
みんなが助けてくれるところ

―現在、片岡さんが本部長を務める第二研究開発本部はどのような部署ですか?

ひとつ特徴を挙げるとするならば、「道がなければ作る」というスタイルの部署ですね。
“いまあるモノで何かを作る”というよりも、何かを作ろうとしたときに必要なハードウェアやインフラがなければ、「じゃあそこから作ろう」ということを”AM2研”時代からずっと行ってきています。その姿勢はいまでも変わっていません。

―セガ・インタラクティブの強みは?

いい意味で、”節操がないところ”ですかね(笑)。コンソールでもアーケードでもモバイルでも、形を問わずさまざまことにチャレンジできるのは弊社のひとつの強みです。
それに、各部署のいろいろな技術を持ったスタッフがそれぞれ「面白いことをやりたい」と思っていて、誰かがチャレンジしようとしたときに、みんなが助けてくれるんです。
以前、『バーチャファイター4』(2001年)で、初めてゲームセンターにネットワークを敷こうと思ったとき、開発チームだけではどうしたらいいのかわからなかったんです。
社内各所に相談をしているとどんどん人が集まってきて、「ゲームセンターとの契約はどこどこがやる」とか、「もしルーターが故障したときのサポートはここがやる」とか、気がついたら20を越える部署が集まったんです。
このように、「面白いことをやろう」としたときに、きちんと人が集まってくれたのは(協力してくれたのは)とても嬉しかったです。手前味噌ですが、とても良い会社だと思います。

―スタッフのモチベーションを高めるために、片岡さんが行っていることはありますか?

基本的に人へモチベーションを与えるのは難しいと思っています。
どのような仕事にモチベーションを持てるかと言えば、やはり”自分が作りたいものを作れるか”、”作っているものに愛情を注げるか”という部分が大きいんですよね。
興味のないものを無理矢理作らせても面白くはなりませんから。
ですから、開発メンバーのキャスティングでは、できるだけそのコンテンツの面白さを理解している人をチョイスするようにしています。そういう人が作ればもちろん一生懸命作ってくれます。モチベーションを上げるというよりは、モチベーションに結びつくような環境サポート、を心掛けています。
というようなことから、「誰が、何を好きか、何をやりたいか」という話を気軽に聞けるよう、普段からスタッフとコミュニケーションを取るようにしています。
“きちんとした企画書を作らないといけない”、”企画会議を開かないといけない”ではなく、私のところにふらーっと来てくれて話してくれるだけでもいい、という感じですね(笑)。
そこで「こういうものが作りたい」、「それはいいね、やろう!」ってなったものは大体上手くいくんですよ。そういう雑談からヒット商品が生まれることも多いので、話をしやすい雰囲気作りをとても大切にしています。

CHAPTER 4

いいモノを作るためには情熱が必要
上っ面だけのものは大体上手くいきません

-片岡さんが管理職として心掛けていることは?

先ほども(前篇で)少しお話しましたが、開発スタッフが制作しているゲーム内容に対して細かな口出しを極力せず、彼らのモノ作りを信頼するようにしています。
とはいえ、開発途中でも(モノ作りの)情熱が維持できているかどうか、という部分は注意深く見るように心掛けていますね。
愛のないものや、上っ面だけのものは大体上手くいきませんから。本人が「本当にそれをやりたい」と思っているか、愛が薄れていないか、という部分は重要だと思うんです。
その人が持っている”ロボット愛”であったり、”ボカロ愛”であったり、そういう「自分はこれが好き!」という情熱は会ってすぐにわかるものではありませんが、いろいろと話をしていくうちに熱量が見えてくるんですよね。”にわか”と”本物のオタク”というのは、やはり話しているとわかるじゃないですか(笑)。
そういう情熱がないと仕事も長続きしませんし、ましてや面白い作品も生まれませんから、そこは注意して見ています。

-仕事でやりがいを感じるのはどのようなときですか?

やはり、長い期間をかけて開発したゲームが世に出る瞬間ですね。
深夜、ゲームセンターが閉まった後に新製品を運び込んで組み立て&セッティング作業を行うのですが、エアコンも止まっているなかで、ひたすら組み立て作業をしているとだんだんみんなのテンションが上がってくるんですよね(笑)。
夜が明けるころにやっと製品が動くようになるのですが、開店時間になって最初のお客さまが100円玉を入れて遊んでくださる瞬間というのは、本当に嬉しいものです。
大げさかもしれませんが、赤ちゃんが生まれる瞬間のような、それぐらい感動しますね。

CHAPTER 5

私たちは、"ゲームをつくる"というより、
"遊び場をつくろう"としている

-今後、セガ・インタラクティブが目指すところは?

弊社はゲームメーカーですが、”ゲームをつくる”というよりは、”遊び場をつくっている”という意識のほうが強いかもしれません。
ゲームセンターへ遊びに行くお客さまのなかには、仲間と場所や時間を共有するのが目的の方も多くいらっしゃいます。
そのような意味では、ただモニターのなかのコンテンツを作るだけではなく、人が集まり、そしてお互いのコミュニケーションも楽しめるものをつくっていきたいと考えています。

もう少し具体的なことばにするならば、”居場所”と言ってもいいかもしれません。

たとえば麻雀ゲームは、スマホを使って家でも遊べます。ゲームセンターでも隣に座っている人と対局しているわけではありませんので、極論を言えばゲームセンターで遊ぶ必要はないんですよね。
しかし、なぜ麻雀ゲームをプレイするためにゲームセンターへ足を運ぶのか。そこに”居場所”があるからなんです。みんな同じ遊びをしている雰囲気が居心地が良かったり、友だちといっしょにゲームセンターへ来て、「自分はこうだったけど、お前はどうだった?」なんて会話をするのが楽しかったり。
このように、なんとなく安心できたり、同じゲームの話題で盛り上がれたり、そういう特別な”居場所”をつくっていきたいと思っています。

CHAPTER 6

クリエイターを目指すのであれば
本当に何でもいい、
自分がつくりたいものをつくってほしい

-将来、挑戦してみたいことは?

昨今は、3Dプリンターが一般化され、また数万円でけっこう高性能なコンピュータも買えたりします。モノ作りの敷居が低くなり、大きい流通や資本に頼らずいろいろなことができる時代になりました。
そういう意味では、インディーゲームじゃないですけど、個人的には、老後にゲームセンターを開いて、年寄りが作った手作りゲームを遊んでもらうのも楽しいかも、と思っています(笑)。
また、いまの時代、アーケードゲームに限らず、いろいろなゲームメーカーさんがさまざまな新しい取り組みを行っていますよね。そんななか、メーカー同士の垣根を取り払って他社といっしょに何かを作り、お互いに協力したり競争したりできたら面白いのでは、と思っています。

-片岡さんにとってセガ・インタラクティブの魅力とは何でしょうか?

先ほど、”遊び場づくり”という話をしましたが、弊社の魅力はそこに尽きますね。
ゲームをつくるのであれば国内外にたくさんのメーカーがありますし、いろんな選択肢があると思うんです。しかし、”ゲームを通してさまざまな楽しい居場所をつくる会社”となると、セガ以外に選択肢がないのでは、と思います。
そういった”遊び場づくり”を目指している会社としては、世界でもトップクラスの技術と情熱が集まっていますから!

-最後に、エンターテイメント業界(およびセガ・インタラクティブ)を目指そうと思っている方にアドバイスをお願いします。

電子工作でも同人誌でもなんでもいいのですが、やはり何かしらのモノ作りを経験してほしいですね。
たとえば、(弊社の)面接時に、「プログラムが好きです」、「イラストが好きです」という言う方に、「何か個人で作っていますか?」と聞くと、「大学の制作作品以外はとくに何も作っていません」という答えが返ってくることも多いんです。もちろん「好き」なのはウソではないと思うのですが、「あれっ?」って思ってしまうんですよね。
モノづくりってすごく楽しい作業ですから、人に言われなくても手を動かしてしまうはず。本当に何でもいい、くだらないものでもいいので、自分がつくりたいものをたくさんつくってほしいです。
いまの時代、ネットを使えば、簡単に大勢の人に見てもらうこともできるじゃないですか。情熱を持って、好きなことにはどんどんチャレンジしてほしいですね。

編集・執筆:ローリング内沢、村田征二朗