Interview: Takenobu Mitsuyoshi (2017-12-01) by Sega Interactive (Part 1)
From Sega Retro
This is an unaltered copy of an interview of Takenobu Mitsuyoshi, for use as a primary source on Sega Retro. Please do not edit the contents below. Language: Japanese Original source: Sega Interactive (archived) |
This article contains untranslated text or images that are written in Japanese.
The original text should stay, but please improve the quality of this article by providing a supplementary English translation. |
- 日本語
- Roumanji†
- English
CHAPTER 1 S.S.T.BANDに出会い、 すぐに思い立ってデモテープを送りました ―まずは、光吉さんの生い立ちについて教えてください 1967年に福岡県で生まれました。小・中学時代はアウトドア派で、当時、プロ野球がすごく盛り上がっていたこともあり、将来はプロ野球選手になりたいと思っていたんです。 なかでも王(貞治)選手に憧れていまして、自分は右利きなのに、左投げ・左打ちの練習ばかりしていました(笑)。 ―そんな野球少年だった光吉さんが音楽に興味を持つことになったきっかけは? 音楽は趣味でよく聴いていましたが、YMO(イエロー・マジック・オーケストラ)(※)を知ったのがきっかけで演奏や作曲に興味を持ち始めました。ちょうど中学の後半から高校に入学した頃ですね。 テクノポップというジャンルに初めて触れ、またメンバー3人のミステリアスな部分も含めて、とても刺激的でした。 YMOが使用していた楽器ということもあり、最初にキーボードを購入して弾くようになりました。 (※)YMO:1978年に結成された坂本龍一、高橋幸宏、細野晴臣によるテクノユニット。1983年に散開(解散)。 ―学生時代、バンド活動はされていたのですか? はい。高校2年生のときに、友だちに誘われたバンドでキーボードを担当していました。私としては、YMOの楽曲を演奏したかったのですが、そのバンドではパワー・ステーションというイギリスのロックグループのコピーをしていました。 最初は「ベースを担当してほしい」と頼まれたのですが、キーボードしか弾けなかったこともあり、いわゆるシンセベースを担当したんです。演奏する楽曲自体はロックなんですが、キーボードでベースを弾いているというちょっと変わったバンドでしたね(笑)。 ―高校卒業後の進路は? 高校卒業後は、大学に進学し経済学を専攻しました。同時に、軽音楽部に入って、バンド活動を続けていましたが、はっきりした将来のビジョンはなく過ごしていて。 そんななか、軽音楽部の後輩と車で移動中、たまたま彼がかけた音楽がセガのアーケードゲーム『ギャラクシーフォース』(1988年)のアレンジ版だったんですよ。 ―そこでセガ(のゲームミュージック)と出会ったんですね。 そうなんです。先ほどお話ししたYMOが散開(解散)してしまって、音楽への拠りどころがなくなっていたのですが、後輩がかけてくれた『ギャラクシーフォース』の曲が、まさに私の大好物であるインスト(インストゥルメンタル)音楽だったんですよね。 詳しく話を聞くと、セガというゲーム会社のサウンド開発者が、サラリーマンなのにライブをおこなったりCDを出したりしていると(笑)。それが、S.S.T.BAND(※)との出会いでした。 もう、「これだ!」と思い立って、すぐにセガにデモテープを送ったんです。アナログ4トラックを重ね録りした、いま思うと本当にチープな音源なのですが、それが運良く採用されましてセガに入社することになったんです。 (※)S.S.T.BAND:セガのゲームミュージックを演奏することを目的として、1988年に結成された世界初のゲームミュージックバンド。 CHAPTER 2 アーケードゲームのサウンド開発は、 筐体に取り付けるスピーカーの選定なども担当します -セガへは1990年に入社されたそうですが、最初に配属された部署は? 当時の第八研究開発部という部署です。のちに、『バーチャファイター』や『シェンムー』などを生み出すことになる鈴木裕さんが部長を務めていました。 なお、セガに入社後に初めて仕事として採用されたのは、『GPライダー』(1990年)という対戦型バイクゲームの曲です。当時は、同じ部署にサウンドの先輩がいて、ある日、「曲を作って」と、ふわっとしたオーダーがきたんですね。 -S.S.T.BANDに憧れてセガに入社し、そこで初めて仕事として曲を手掛けたときはどんな気持ちでしたか? 「サラリーマンとして曲を作ってお金がもらえるなんて、こんなに素晴らしい仕事はない」と感じました(笑)。セガ入社時の面接試験で、「セガに入ったら何をしたいですか?」という質問に、「S.S.T.BANDに入りたいです」と、即答するぐらい好きでしたから。 -ちなみに、ゲーム会社のサウンドコンポーザーとは具体的にはどのような仕事をするのですか? ゲームメーカーによって異なると思いますが、弊社(セガ・インタラクティブ)における一般的なサウンド開発の話をしますね。 私は主に、アーケードゲームのサウンド開発を担当していて、ゲームのサウンドデザイン、楽曲や効果音を制作しています。声優さんの声(キャラクターボイス)を使用するタイトルならば、そのディレクションや音声収録後の編集作業なども手掛けます。 なかでも、コンシューマー(家庭用)ゲームのサウンド開発と大きく異なるのは、アーケード筐体に取り付けるスピーカーの選定をはじめ、その個数や配置場所など、プロダクトデザインにも携わることですね。 また、これまでに制作した楽曲(コンテンツ)を有効活用するためにCDを制作したり、ライブに出演したりなど、プロモーション業務に参加することもあります。 -現在、光吉さんが担当しているタイトルは?? ここ最近は、『maimai』シリーズや『チュウニズム』シリーズといった、アーケード音楽ゲームに携わっていまして、そのなかでも、おもに外注の作曲家さんに依頼した楽曲の検収を担当しています。いわゆる、ゲームで使用されるオリジナル楽曲のクオリティーチェックですね。 -作曲家の選定も光吉さんが行うのですか? いいえ、どの作曲家さんにお願いさせていただくか選ぶのは基本、企画担当のスタッフです。ただし、『チュウニズム』に関しては一部、私も選定に携わっています。 例えば、『チュウニズム』には、さまざなジャンルの楽曲が収録されていますが、企画担当のスタッフから、「王道RPG風の楽曲も収録したい」という話があり、「それならば!」と、私の長いゲーム音楽業界のキャリアを活かして、植松伸夫(※)さんや光田康典(※)さんといったお知り合いに連絡をして「Theme of SeelischTact」や「Alma」という楽曲を提供していただいたんです。 なお、楽曲の最終的なブラッシュアップについては、「納品していただいたままでオッケー」という場合もありますし、制作中にお悩みの方がいらっしゃったら直接電話でお話をして相談にのるなど、そういったことも私の仕事のひとつになっています。 (※)植松伸夫:『ファイナルファンタジー』(株式会社スクウェア・エニックス)シリーズの楽曲を手掛ける作曲家。 (※)光田康典:ゲームミュージック、アニメ、テレビの音楽などを手掛ける作曲家。代表作に『クロノ・トリガー』(株式会社スクウェア・エニックス)など。 CHAPTER 3 一般的な音楽の曲づくりと異なる 音楽ゲームの曲づくり ―『maimai』、『チュウニズム』といった音楽ゲームと、アクションゲームやレースゲームなどでは、楽曲のつくり方は異なりますか? 結論から言えば、これまで私が手掛けてきたゲームの曲づくりと、音楽ゲームの曲づくりはまったく違うものです。 音楽ゲームの曲は、じつはすごく機能的なんですよ。たとえば、プレイヤーに短いプレイ時間でノリの良さを感じていただくためには、BPM(※)200以上のテンポの速い曲が好ましいとか、プレイヤーがアクションを起こすためのノーツ(※)を配置する都合上、メロディは一辺倒ではいけない、とか。 まず最初に、「音楽ゲームとして最適な曲かどうか」というゲーム性の良し悪しの部分を考え、そこからの作曲になりますので、一般的な音楽のつくり方や発想方法とは異なるんですよね。 (※)BPM:Beats Per Minuteの略。音楽で演奏のテンポを示す単位。1分間あたりの拍数で表記される。 (※)ノーツ:プレイヤーがボタンを押すタイミングの目安として表示されるリズムアイコン(記号や印)のこと。 ―ちなみに、光吉さんが、これまでに手掛けた仕事で印象に残っていることは? 『デイトナUSA2 BATTLE ON THE EDGE』(1998年)で、初めて海外レコーディングを行ったことですかね。ニューヨークで収録を行ったんですよ。 海外でのレコーディングは印象に残っていることが多いですね。といいますか、海外レコーディングが好きみたいです(笑)。 去年情報公開された、海外市場のみで展開予定のアーケードゲーム『Daytona Championship USA』に、初代『デイトナUSA』(1993年)用に私が作った『Let’s Go Away』という曲のアレンジ版が収録されるのですが、それもフィリピンでレコーディングしてきたんです。 ロサンゼルスっぽい感じの音をフィリピンで録る、というのがちょっと面白かったですね。とくにフィリピンは、過去にアメリカの占領下におかれた歴史がありますので、アジアの国といえど、音楽的にはアメリカの文化が残っていたりするんですよ。そうすると、想像以上に本格的なロックが録れたりして。 ―海外でのレコーディングが好きなのはどうしてですか? その場所に行かないと録ることができない音があって。たとえば、日本人のソウルミュージックは演歌で、ヨーロッパのソウルミュージックはクラシックであるように、国や地域によって音楽の歴史的背景が異なります。それによって演奏のニュアンスや音色も違ってきます。 また、ヨーロッパはよく石の文化と言われていますが、そんなヨーロッパ的空間で収録された音とハリウッド的な場所で録られた音は音響的な意味においてもまったく異なるんですよね。 “空気が違う”と言うと抽象的に聞こえてしまいますが、音は空気振動として伝わりますから、例えばそこに湿気があるかないかによっても音が変わってくると思うんです。 さらに、演奏する人間も違いますからね。そんないろいろな違いが重なり合って、パッと曲を聞いただけでは気が付かないかもしれませんが、よくよく聞くと音のニュアンスに差が出てくる。その微妙な差が、何度も聞くうちにボクシングのボディブローみたいに効いてきて、曲全体の印象が変わってくるのが面白いんです。 日本だけでは味わえないこのような刺激に仕事へのモチベーションもあがるんですよ。海外に行き、”純粋にいい音楽を作る”という目的に集中して仕事に身を投じると、「やっぱり音楽っていいな」という、すごく基本的な気持ちに立ち返ることができるのも大きいですね。